食卓を彩る、りんご。ひとかじりすれば、甘酸っぱくて甘い、ジューシーなおいしさが、口いっぱいに広がります。
そんな、おいしさを生み出しているのは、ほかならぬ「りんご農家さん」。そんな農家さんの思いや、農業に対する哲学に、耳を傾けてみませんか?
りんごを愛して奮闘する、りんご農家さんのインタビューをお伝えしていきます。
きっと、りんごの見え方や味わいが、昨日とは変わるはず。
今回ご紹介する農家さんは、長野県南部の箕輪町で「GRAPPLE TAKADA」(グラップルタカダ)を運営する高田知行(たかだともゆき)さんです。東京でのサラリーマン生活を経て、2011年箕輪町に移住。りんごや自然を軸にした地域活動に力を入れながら、ぶどうとりんごを栽培してきました。「移住後は、家族と過ごす時間が増えた」と高田さんはしみじみ話します。
Issue01では高田さんの「移住するまで」に迫ります。
箕輪町に広がるりんご畑。こちらに移住したのは2011年4月です。それまで家族で千畳敷カールを登山していたころから、伊那谷には馴染みがあったのだそう。小さな子を引き連れて10年かけて頂上に登ることができました。
「通ううちに、妻が『この地に住むのはどうだろう』と言い出したんです。私は千葉で生まれて東京に住む生活を送ってきたので、こんな展開になるなんて思わなかった。しかし、こっちの生活もいいかもしれない、とスッと思うことができたんです。」
高田さんのライフスタイルは、地域活動とともにありました。江戸川区に住み、地域で夏祭りや虫取り大会の企画・開催をしたり、環境NPOに所属して活動したりすることもありました。例えば『あのプールでヤゴが大量にとれる』と耳にしたことから、プールの掃除も兼ねてヤゴを取るイベントも開催しました。
「小さい子がくればその家族も集まりますし、近所の虫好きのおじいさんも足を運ぶんですよ。いろんな人と同じ方向を向いて地域活動をやっていると、自分の心が豊かになるのが分かるんです。気持ちが元気になって、楽しいんですよね。
地域に密着した活動は、都会においてはサラリーマンとして働きながら、休日に行う活動で限界です。地方だったら、地域活動をもっと活発にできるのではないかと、漠然と思いました。」
そんななか農業体験ができる「新規就農準備校」の企画を見つけました。2010年4月から11月までの期間、毎月1回土日に駒ケ根に宿泊して農作業を行います。
「移住して就農するなんて、当時は思っていなかったんですよ。一方で、こっちに来るってことは、土に触れ合う機会は増えるだろうし、自分たちが食べる野菜くらいは作るだろうと、直感的に思いました。家族がそんなことが嫌いだったら、おそらく移住もうまく行かないだろうという考え方のもとで、お試しとして農作業を行うために、毎月駒ヶ根に通う生活を始めました。」
いつまで通えるだろうか。もし途中で嫌になったら、移り住むということも含めて考え直すことにしていましたが、そんな心配も杞憂に終わりました。
「ダメならダメでしょうがないと思っていました。駒ヶ根で農業をした後、帰宅は毎回渋滞に遭遇するため5時間もかけていましたし、家に帰ったらみんなクタクタ。それでも、みんな晴れやかな顔をしていたんです。」
移住の現実味が帯びてきたのは8月。そして農家という道も描き始めました。
「会社はセキュリティの問題で、閉鎖的な空間になりがち。しかし畑は、開けた大地で行うもので、誰でも入れる場所です。そして食事は、ちっちゃい子からお年寄りまでみんなで楽しめるもの。畑に通ううちに、地域に密着しながら仕事をするという自分の夢が、農業なら叶えられると思ったんです。」
農業を始めるにはどうしたらいいのか、長野県の農業経営指標を見たり、役場の人に相談したりして、進めていきました。
「ゼロからいろいろ調べる中で、ぶどうをやってみたいなと思いました。ぶどうは難しいから、役場の人に心配されたこともありましたね。
そして、伊那谷はりんごの産地。農家仲間ができるからと熱心に薦められたこともあり、りんご栽培も始めることにしました。」
2010年9月、箕輪町に畑候補地となる農地を見つけ、11月には地元農家の方に「長野県の新規就農里親制度」の利用を承諾してもらえました。その制度を利用することで2011年春から地元農家の方に農業を教えてもらえる都合がつきました。
「4月にこっちに入ると決めていましたので、上司に早めに相談しながら退職に向けて引き継ぎなどもしていました。家が決まる前に、会社に退職届を出してましたのでドキドキでした。ギリギリセーフで家も決まりましたね。」
2011年3月、いよいよ退職・移住というところで、東日本大震災が発生。高田さんも、職場から家まで5時間かけて歩いた帰宅難民となりました。会社も大変な状況で、引っ越しよりも会社の片付けが優先となってしまったのだそう。
「本当に長野に行けるのか? と思いながら作業していましたね。予定してもらっていた送別会もなくなりました。」
インフラが乱れ、生活物資の不足問題も発生。きわめつけは、ガソリンが品薄になったことです。
「ガソリンが東京で入れられないんです。小さな子どもがいる5人家族で、長野に車で行けなくなったらヤバい。とにかく、なるべく車に乗らずにガソリンを残して生活しました。」
最後に残ったガソリンは、東京から長野への片道分だけ。ギリギリのところで、車で東京を出発することができました。夜になり、高速道路を降りて伊那谷に向かって進んでいくと、だんだんと見えてきたのは、遠くの谷間に光る、街明かりでした。
「夜空の星のように、ぼおっとした光がゆらゆら揺らいで。これからこっちの生活が始まるんだっていう決意の気持ちからなのか、とっても綺麗に見えたんです。あの景色は、一生忘れないと思います。」
Issue02につづく